• REVIEW

    [ALBUM]

    “MISOGI EP【オーディオ盤】”

    04年に5曲入りのミニアルバム『Everyman,everywhere』を出した際に田中(Vo./Gt.)は、「5.6曲ならではのスタイリッシュなもの、フル・アルバムとは違う統一感が出れば」と言った。本作も、まさにそうした意図で作られたようだ。ユニコーンなどのプロデュースで知られるマイケル河合と初顔合わせで制作された曲は総てローマ字表記のタイトルが付けられて軽やかに見えるが、その意味するところは重い。研ぎすまされた言葉は見えない希望や消えない不安を抱えながら生きていく我々の姿を映している。四文字熟語の言葉遊びめいたシニカルな歌詞を、華やかなコーラスとホーンズが彩る「MISOGI」はGRAPEVINE VS マイケル 河合の真骨頂。身を清め次へ進むための儀式である「禊」で、GRAPEVINEは新たな一歩を踏み出す。陰暦の3月を意味する禊月に通じるタイトルが意味深長だ。続いてダイナミックなアンサンブルが圧倒的な「ONI」。落ち着いたトーンの「SATORI」は言うまでもなく仏教用語で解脱の境地。珍しく女性の立ち場で歌う「ANATA」の果てしない孤独、アルマジロをモチーフに混沌を描く「YOROI」。最後の「RAKUEN」はかけ間違えたボタンを見つめる醒めた眼差しが痛い。この6曲から成る『MISOGI EP』は、GRAPEVINEらしいクールな言葉と力強いバンド・サウンド、暖かな視線が一段と凝縮され研ぎすまされた、小品ならではの快作である。

    文/今井智子


    “真昼のストレンジランド”

    グレイプバイン11枚目のオリジナルアルバムが発売される。
    11枚目のアルバム――現在、日本でここまで着実に作品を積み上げてきたアーティストをあまり知らない。それもバンドという、思春期特有の危うさを秘めた形態で。そんな稀有なる円熟の道に加え、彼らは常に変革の風も絶やすことなく吹かせてきた。つまり、より深く、より強く、より新しく、よりみずみずしく。それが今、新たな黄金期として結実したのが本作である。
    「今回の内容は……正直わからないですね。これまでと比べても、わからない。これがどんなアルバムかと訊かれたら何の言葉も出てこないですよ」(西川弘剛/G)
    メンバー自身、本作を語る言葉をすでに持たない。彼らの王道を往く「風の歌」、明るさと切なさを兼ね備えた「真昼の子供たち」を筆頭に、アルバムには奔放な曲が並ぶ。アメリカン、ブリティッシュ、サザン、オルタナティヴといったロック文脈はもちろん、ブルース、ポップ、ジャジー、シンガーソングライター……多彩を咀嚼した楽曲群は、どれも見たことのない清冽な表情を見せる。なかには、ロックバンドの概念を逸脱して見えるものもある。だが、そこにあるのは机上の実験ではない。長田進プロデュースの元、連綿と鍛え上げられたバンドの表現力が“うたの息吹”を注ぎ込む。
    「最近は曲の構成がシンプルになってるぶん、よけい演奏のニュアンスが重要になるというか。1曲の中でも表情を付けることが大事になってきてるんです」(亀井亨/Dr)
    まるで各楽器の音が蠢(うごめ)くように絡み合うアンサンブル、そしてダイナミズム。それはバンドという団体芸術のひとつの到達点として、ヘッドフォンに集中して堪能してもらいたいものだ。
    そんなサウンド面に加え、見逃せないのが田中和将の描く歌詞世界だ。これまでも高い評価を得てきたが、より一層の飛翔を果たした本作は、ムービーチャンネルをザッピングするかのごとく想像力全開。その上で、本作が何よりも特異なのは、全曲を通して聴いた時、すべての曲が結合し、巨大な一遍のストーリーを描いてしまう奇跡にある。
    「ちょっとコンセプチュアルな感じもしますよね。結果的にガチッとストーリーが組みあがった点で、これまでのアルバムとは感触は全然違うのかもしれません」(田中)
    53分49秒で語られる、この物語。この白昼夢、この茫洋、この絶望とこの希望――そこにはやはり、これまで体験したことのない音楽的高揚が存在する。
    『真昼のストレンジランド』、グレイプバイン畢竟の一枚である。

    文/清水浩司


    “TWANGS”

    グレイプバインの前作『Sing』は、このバンドが到達したとてつもない高みだった。少なくとも歌ものバンドとしてのグレイプバインは、このアルバムをもって頂点を極めたと言いきっていいと思う。楽曲の清新とキャッチーさと完成度、演奏の安定と成熟、プロダクションの洗練は、過去最高の水準に達していたし、それは彼らの15年に渡るキャリアの集大成と言った趣さえあった。
     しかし、頂点である限りは、その先は下るしかない。これからグレイプバインが、大きな太陽が地平線に沈んでいくように、なだらかな下り坂をゆっくりと下っていったとしても、誰も非難などできるはずがない。もう彼らはとうの昔に青春期を終えているはずのバンドだったからだ。
     だが本作『Twangs』において、彼らはぼくのそんな思い込みなど軽く粉砕する、予想もしない変貌と進化を遂げていた。冒頭の「疾走」が象徴的だ。切れ味鋭いギター・リフに導かれ、サイケデリック、ロウファイ・オルタナティヴ、プログレッシヴ、ポスト・ロック……さまざまなカッティング・エッジなエッセンスが火花を散らしながら煮えたぎるカオスの渦となって牙を剥き、聴き手に襲いかかる。いつになく攻撃的な歌詞といい、ストリングスをフィーチュアした重厚なアレンジといい、そのインパクトは尋常ではない。その後もダイナソーJrさながらの荒々しいガレイジ・サウンドとグラム・パーソンズばりのカントリー・ロックが無理やり合体したような「Pity on the boulevard」、英語詞の「Vex」、生ギターとストリングスだけで構成された「Twang」など、ほぼ全編にキーボードなど3人以外の楽器がフィーチュアされた大胆なアレンジで、これまでのグレイプバインの、正統派の端正なギター・バンド的なイメージを完全に覆しかねない冒険的なサウンドを展開している。その密度の濃さと情報量の多さはすさまじい。
     もちろん生命線であり、彼らの音楽の核であるポップでエモーショナルな歌ものとしての魅力は健在である。だがそれ以上に、おそらくはプロデュースの長田進との緊密なコラボレーションによって構築された野心的なプロダクションは、衝撃的ですらある。まさかグレイプバインがこんな方向に進むとは思わなかった。そこにはブルックリンあたりのサイケデリックなアート・ロック・シーンにも共振する同時代性すら感じ取れたのだ。
     この変貌の裏には、今年のSXSW(サウスバイサウスウエスト)への出演、そして初のNYライヴなどの影響があるようだ。洋楽的な出自を持ちながらも、あくまでもドメスティックなロック表現を目指していた彼らは、そこで改めて大きな刺激を受けたのだろう。その刺激は、彼らを大きく変貌させ、脱皮させたのである。
     ぼくはかって、グレイプバインの音楽はデビュー時から完成されていた、と書いたことがある。バンドにとっての青春期が音楽性という自我の形成期であるなら、彼らの青春期は終わっていたはずだった。だがデビュー10年以上を経て、彼らは大きく変わった。緩やかな減衰期に入っていたはずのバンドは、まさに青春期的な衝動とエネルギーと新鮮な情熱を取り戻したのである。圧倒的だ。
     このアルバムが従来からのファンにどう受け止められるのか、わからない。だが彼らにとってこのアルバムは、第2のデビュー作といっていいほどの重要作でありメルクマールとなるのは間違いないと思う。ここから新しい時代が始まるのだ。

    2009年6月15日 小野島 大


    “Sing”

    素晴らしい。完璧である。
 全12曲、捨て曲なし。息を呑む名曲のオンパレード。
 何度も何度も、心臓を鷲掴みにされ、肌が泡立ち、背筋に戦慄が走る。日本人の生理と感情の奥底を直撃するような絶妙な歌メロとコード進行の妙。シングルとして発表済の曲も、アルバムの中の1ピースとなることで、輝きを増す。ここ数作のうち、もっとも楽曲の粒が揃っていることは間違いない。
 名曲に巡り会う瞬間は、いつだって理屈ではない。音だけではない。もちろん言葉だけでもない。音と言葉が一体化して、静寂から立ち上がる刹那に感じる直感がすべてだ。本作にはそれがある。聴いた瞬間、すべての世界観を共有できる。この一体感。
 丁寧に、じっくりと育んできたことがわかる12曲。前作『From a Small Town』から本格化した長田進とのコラボレーションはさらに熟成してきた。決してバリエーションのある楽器編成ではないのに、きめ細かなアレンジと、引き締まった演奏、ほのかに湿った空気感を漂わせるエンジニアリングで、思いのほか変化がある。
 グレイプバインの音楽は、ずっと歌詞先行の頭でっかちなものだと思い込んでいた。だが『From a Small Town』時の取材で、その先入観は間違いだと知った。音楽で何かを恣意的に語る行為を拒否する。何らかのメッセージを伝えるための手段として音楽があるのではない。音楽を意味の王国に祭り上げない。田中和将をはじめ、グレイプバインのメンバーは、そんな信念の持ち主だった。
 もちろん歌詞は言葉であり、言葉である限りは意味がある。聴き手はその意味を自由に解釈すればいい。だが歌詞であるからこそ、言葉単体ではなく、音楽と一体化した<音>として受け止めなければ、それこそ意味がない。たっぷりの情動、喧噪と沈黙、その狭間から聞こえる言葉の断片がイマジネーションを広げ、グレイプバインの光景を形作っているのだ。本作で、その世界はいっそう鮮やかな光を放っている。
 本作のタイトルは「Sing」。声に出して歌うだけが「歌う」ことなのではない。ギターも、ベースも、ドラムスも、すべての楽器と空気が歌っている。言葉はなくとも、歌っている。歌うからこそ広がる世界があり、共鳴する宇宙がある。グレイプバインの新作は、そんなことを教えてくれる。見事な傑作である。

    2008年5月15日 小野島 大


    “From a smalltown”

    いたって自然体の人たちなのである。
     気負いも、構えもない。苦悩する文学青年、という事前のいい加減なイメージはいともあっさりと覆されてしまった。
     グレイプバインの田中和将の書く歌詞は文学的であり暗喩的であり時に難解であるとされる。ぼくもそういう印象を持っていた。だが今回初めて会話を交わした田中の発言は、やや意外なものだった。
     仮にグレイプバインの歌詞がまったく意味のないデタラメ語であったとしても意は伝わると思うか、という、こちらの突拍子のない質問に、田中は淡々とした口調でこんなふうに答えたのである。
     「伝わるんじゃないかなって思いますね。基本的にぼくらは(洋楽を)英語をわからずに聴いてきたわけじゃないですか。自分たちが曲を作る時も、仮歌ってデタラメ英語的なもので歌ってるんですよ。それでぐっとくるかどうかやってるから。正直、邦楽って日本語が聴こえてくるのがものすごく邪魔だったりする。自分の想像をすごく邪魔された気がして。だから、言葉なんて見えなくても伝わるんじゃないかって思いますね。ぼくは曲から映像的なイメージを伝えたいと思うので、意味をなくしたいんですよ。だから曲から受けるイメージを阻害しないような言葉選びをしてます。深読みしたい人は深読みして聴けばいいし、聴こえてきたワンワードから自分で想像を広げてもらうのが嬉しいですね」
     自らの表現を象徴主義的な「意味の王国」に祭り上げてしまうことを拒否し、あくまでも「音」そのものとして受け入れられたいと願う。言葉ではなく音楽の力、バンド一体となったパワーを信じ、聴き手の自在なイマジネーションを刺激したいと切望する。「聴き手に対してメッセージを発したり、共感を求めるほうではない。理解して欲しいというより、勝手に広げて欲しい」という田中の発言は少々意外でもあったが、そこらの文学青年崩れではない、いたってまっとうな音楽家集団としてのグレイプバインが、その発言に集約されているように思えた。
     田中によれば、グレイプバインの歌詞は、「昔からずっと同じことを歌っているような気がする」のだという。それが何かと尋ねると「具体的に説明しにくいんですけどね。その説明しにくい気分を歌いたいんだと思います」という答えが返ってきたのだが、確かに一言で説明できるようならわざわざ歌詞にはしないし、字面だけで伝わるようなら音楽にする意味もない。そして価値観が揺るぎ、既存の枠組みが崩壊しつつある現在、白黒つけられない<曖昧さ>こそが、アーティストとしてもっとも誠実なありようとも言える。
     歌詞もそうだが、グレイプバインの音楽性もまた、デビューした10年前からあまり変わっていない。やみくもに新奇さや変化を求めるタイプではないということもあるし、デビュー時にすでにバンドとしての個性が確立していたとも言えるだろう。その個性に細かいブラッシュ・アップを重ねディテールのこだわりを追求することで、グレイプバインの音楽は進化していったのである。
     といって、彼らが外界からの影響を排除しているわけではない。むしろ彼ら自身の姿勢はより柔軟なものとなり、許容量は広がっている。以前だったら出来上がった曲をグレイプバインらしくない、とボツにするケースもあったが「今は考えなくなりましたね。もしかしたら、1回やったら変わるかもしれないし、逆に、ぽくないのはやってみたら面白いんじゃないかなとか考える。たいがいの曲をやっても、グレイプバインらしさは出るから」(亀井亨)と考えるようになった。だから10年前に比べ、バンドとしてのスケールは格段に大きくなっている。もちろんそれは歌詞にしても同様である。
     今作のプロデュースはドクター・ストレンジラヴの長田進。前作『デラシネ』でも数曲担当しているが、アルバム全部を任せるのは、これが初めてである。長田はプリプロ時からバンドにつきあい、曲作りの初期段階から関与し、アイディアを出した。今回はデモ・テープに演奏を肉付けしていくいつもの手順ではなく、セッションでいちから曲を作っていくやり方も採用。それは長田の助言も大きかったという。その結果予定調和ではない新しいグレイプバインが引き出された。
     「楽曲があってもあまり練りこまずにやりましょうと。練習するな、お前らとも言われました。ぼくらだけでやると固定化したものになっちゃうので、面白かった。長田さんは当然ぼくらよりも引き出しが多いので、従来のぼくらにはない発想ややり方もあって、刺激的だった」
     長田は理詰めでモノを考えるタイプではなく、気分によって言うことが変わるような<いい加減さ>があるという。だがその<いい加減さ>こそが今までの<生真面目な>グレイプバインに欠けていたものだった。「(長田のいい加減さは)ぼくらのそういう(生真面目な)部分を見抜いてのことだったのかもしれない」と田中は言うが、そうした姿勢や助言を受け入れる余裕と自信こそが、グレイプバイン10年目の大きな成長の証と言えるのではないか。そう、彼らの音楽は出来上がってしまった<完成品>ではない。あくまでも<発展途上>なのだ。

    2007年1月31日 小野島 大


    “イデアの水槽”

    吹きとんでる。漲ってる。なんだこれは。やばいぞ、グレイプバインのニューアルバム。叫んでる。毒吐きまくってる。おまけに突然絶望する。愛を謳う。世界を嗤う。開き直る。笑いとばす。どうなってんだ。曲調ばらばら。飛び散りまくりのエモーション。たとえるならば、あれだ、そう、アップダウンの激しすぎる山道ドライブな聴き心地。アクセル全開。瞳孔半壊。それって最高にロックンロールじゃないですか!
 やっぱね、乗組員が変わったのがまず大きい。これまでナビしてくれていた根岸孝旨センパイがいなくなり、今回からはメンバー3+サポート2の完全5人乗り仕様。ハンドル握った餓鬼どもは、もう、とばすとばす。ツアーで鍛えられた手に汗握るグルーヴ優先。ソリッドなるバンドサウンド満載。ほとんどガレージな「シスター」「ミスフライハイ」、そして「鳩」。かつてこれほどまでにノドを枯らして歌う田中の姿があっただろうか。ほとんどファンクな「11%MISTAKE」。ほとんどビートポップな「アンチ・ハレルヤ」。かつてこれほどまでにヤンチャ心に満ちたトライアルがあっただろうか。本作の特筆すべき点は、まずそこだ。エネルギッシュ。そしてスパークリング。この研ぎ澄まされた音の波形に溺れる悦楽――その効き方は、彼らのこれまでのどの作品と比べても、また現存するミュージシャンのどの作品と比べても、高い。
 しかし、だからといってこのアルバムが、ゴリゴリのロックアルバムでしかないかと問われると、答えはノーなのだ。先行シングルとして切られた「会いにいく」「ぼくらなら」、そして収録曲の「公園まで」。本作では、ここに顕著なメロディアスなポップス寄りの楽曲が、前述のソリッド・ロックとまるで違和感なく並んでしまっている。いや、むしろ、この激しい段差のおかげで、キレてるものはキレキレに、センチなものはドセンチに、各自立体感を増し、奥行を増して迫ってくる。最初にも書いたように、本作に収められた楽曲はとてもばらばらだ。ロックもあれば、ポップもある。全方位型のグレイプバインといっていい。しかし不思議と散漫な印象はない。ここで私は想像する。高速で回転する物体が、次第に中身を撹拌させ、ひとつひとつの要素を分離・濃縮させていく科学現象。さすがミスター・サーキュレーター(前々作アルバム『Circulator』=循環するもの)。この破天荒なまでの飛び散り具合は、彼らの撹拌&濃縮、そしてその源である加速力の激しさを表してはいまいか。つまりまたエネルギーと内圧の強さを!
 書き手の興奮は、そのまま本作の与えたインパクトの大きさと思ってもらってかまわない。うたの聞こえるロックアルバム。自らを切り売りすることなく、力とスキルとソウルでもってすべてをねじふせようとする攻撃的たたずまい。大人には勇気を、子供には憧れを――私は本作をグレイプバインの最高傑作と推すことにいま、異存はない。

    文/清水浩司


    “Circulator”

    「初心に帰る」という言葉は、新たなる出発を誓う言葉として、ひと昔ほど前までは、よく使われたものだ。最近は「頑張る」という表現と同じぐらい、意図的にこの表現を避けている人も多いのではないかと思う。それは恐らく、この言葉の持つ意味が陳腐なものとして捉えられているからなのだろうが、はたして、「初心に帰る」というのは、本来、どういう決意を示すものなのだろうか?
     僕らは毎日、(自覚している、いないにかかわらず)何かに挑戦し続けている。その過程で何度も失敗も繰り返していく。初心に帰る、というのは、決して、そんな失敗の連続を否定して、自分の経験値をリセットすることではないと思う。失敗の連続の中で、ふいに、自分を見失ったように感じたときに、僕らに必要なのは、自分の挑戦を支えている「初期衝動」の本質を見極めることだ。そして、その「初期衝動」こそが「初心」という言葉で表されるものの本質ではないのだろうか、
     GRAPEVINEのニュー・アルバムが「初心に帰った」作品だ、などと言うつもりはないし、本人たちからそんなセリフを聞いたわけでもない。しかし、アルバムのタイトルは『Circulator』である。この言葉には「循環するもの/させるもの」という意味がある。例えば、血液は体内を循環している。体内という小宇宙で、たぶん僕らが想像する以上の遥かな旅を経て、疲れきって心臓へと戻り、肺を経由して酸素を補給して、また遥かな旅に出る…。血液にとって遥かな旅への挑戦を支える「初期衝動」は酸素であり、血液は心臓に戻ることで初心に帰るとするならば、GRAPEVINEの新作が、そういう姿勢を表現するために『Circulator』というタイトルを冠していたとしても何ら不思議はないだろう。
     ロックという、ひとつの「宇宙観」を極めるための旅を続けるGRAPEVINEが、「初期衝動」を補給するための中継地点に示した旗印= 『Circulator』。そう思って聴くと、このアルバムが持つ、1曲1曲のダイナミズムとドラマチックな展開にも納得がいく、というものだ。転がり続けるのがロックンロールだ、なんていうのは時代遅れな感じがするけれど、循環し続ける、という表現になると、何と未来的であることか。
     音楽が氾濫するあまりに、心を揺さぶるサウンドを、素直に「いい」と言えなくなっている僕らも、「初期衝動」の本質を今一度、見極める必要があるだろう。初めてロックと呼ばれるものに触れた時の衝撃。パンクやニューウェーブ、グランジやビッグビーツなど、新しいサウンドの誕生を耳にした時の新鮮さ。あの時の、心臓の裏側にまで鳥肌が立つような昂りと、この『CIirculator』を聴いた時に感じるモノに何の違いがあるというのか。惑わされてはいけない。「初期衝動」の本質を見極めるというのは、自分自身の感性を信じることでもあるのだから。

    文/脇坂一彦


    [SINGLE]

    “FLY”

     結成10余年になるバンドが、禁じ手として来たジャム・セッションで曲を作るとは、まさに「コロンブスの卵」だ。05年9月に、アルバム『デラシネ』からリカットされたシングル「放浪フリーク」以来,約1年ぶりの新曲「FLY」のことである。これはGRAPEVINE史上初となる、バンド名義の曲なのだ。
     意外にも思えるが、GRAPEVINEは過去にバンド名義で曲を作ったことがない。きっちり作詞・作曲者の名が記されるのが常だった。ライヴでは存分にジャム・セッションしてみせたりする彼等にとって、ジャムって曲を作るのはお茶の子さいさいだったはずだが、敢えてそうしないことでメンバーそれぞれの色を打ち出し、バラエティに富んだ曲を作り続けて来た。
     そのルールを変えたのは、最近のライヴでの演奏に手応えを感じていたことから,その流れで曲を作りたいと思ったから、と言う。思いつきや気まぐれではなく、ルール変更の意味が今ならあるという確信が、この曲を生んだ。しかも、ここに記された「GRAPEVINE」には、田中和将、西川弘剛、亀井亨の3人だけでなくサポート・メンバーである金戸さとる、高野いさおの二人も含まれている。5人のジャム・セッションから生まれた曲から始まる新たな一歩は、今まで行ったことのないところ、たとえば空に飛ぶに等しい。そんな気持ちを表したような田中の詞と歌も、彼独特のネジレを含みつつ、思い切って飛ぶしかないんだと宣言している。息の合った演奏を要に、肝を据えて成長したGRAPEVINEの前途は、高い秋空のように洋々だ。
     ゆったりとしたギター・リフで始まり,ドラムとベースが追いかける。まさに空に向かって飛び立つような,スケールの大きさを感じさせる幕開けが、期待を煽る。ありそうでなかった、新しい風を感じるではないか。
     カップリングの「エピゴーネン」は、「模倣者」を意味するタイトルからして彼等らしいが、ゆったりしたテンポが醸し出す達観めいた空気こそ彼等ならでは。もう1曲「大脳機能日」は、意味不明のタイトルながら、そんなことを忘れさせるシャープなファンク・ロックぶりが痛快。そして『デラシネ』に続き、プロデュースは長田進(Dr.Strange Love)。バンド感の強い仕上がりで、持ち味を生かしつつ新風を感じさせるシングルとなった。ここから始まる新作が、今までとはひと味違う GRAPEVINEを見せてくれることは間違いない。

    文/今井智子


    “BREAKTHROUGH”

    声高な扇動はいらない。
    「ただの理想」を謳う リアル・ロック・バンド、グレイプバイン。

     通算16枚目のシングル“BREAKTHROUGH”は、グレイプバインにとって大きな意味をもつシングルになると思う。これまでのバンド・ストーリーに落とし前をつけ、これからの理想を打ち立てるマニフェスト・ナンバーだからである。
    サウンドの基調にあるのは、最新アルバム『イデアの水槽』に通じるアグレッシヴなグルーヴ感だ。デビュー初期は横に大きく揺れるファンクネスを自在にあやつり、聴く者に「めまい」に似た感覚を抱かせてきたバンドだったが、まったく違うバンドになったようだ。西川、田中、亀井、そしてサポート・メンバー高野(キーボード)、金戸(ベース)による五人編成のアンサンブルは鋼の衝撃力を宿している。しかも、それがサビにかけて巨大な飛行船のように浮遊する、そのカタルシスがすばらしい。アメリカ南部を二輪でドライヴするブルース・ロックから、航空工学を駆使したようなフォーミュラへと、サウンドが変貌を遂げている。
     一方、田中の歌詞は、言葉の「意味」を重層的につらね、寓意に満ちた世界観を提示している。「苛立ち」「怒り」といった感情を名指しで言いあてているが、果たして何に苛立ち、何に怒りを覚えているのかはわからない。あるいは、その「正体のわからなさ」に苛立っているのかもしれない。また、『イデアの水槽』や代表曲“スロウ”のタイトルを暗示的にちりばめるなど、田中自身がグレイプバインというバンドを対象化しているような印象も受ける。総じて、自問自答が円環する歌詞だといえるだろう。
     では、果たして「突き抜ける」とはなんなんだろう? 突き抜けた先にあるのが死ならば、第二のジム・モリソンになることになんの意味があるのだろう?そんな問いを孕んでいるから、この曲は無責任なロック讃歌ではない。ロック幻想と日常の相克、生と死の拮抗、そういった葛藤に自覚的だからである。そこが優れているのである。葛藤に無自覚のままでは、第二のジム・モリソンどころか、ただのアッパラパーである。かといって、葛藤に押しつぶされるようでは、表現などできなくなってしまう。
     “BREAKTHROUGH”を聴くと、グレイプバインは葛藤も理想もすべてを背負って転がり続けようとしている、と感じる。この曲は重い。ギターのコード感も、リズムも、ピアノの音色も切迫していてメランコリックで重い。ぼくはその「重さ」を支持する。これが、今の時代にロック・ミュージックに向う彼らの切実さの証しだと思うからだ。
     もうひとつ。先にも名前をあげた“スロウ”がTHROW(=投げる)/SLOW(=ゆっくり)というダブル・ミーニングをもっていたことから考えると、この曲はグレイプバイン史上初の宣戦布告と呼べるかもしれない。ブレイクスルー(=突き抜ける)/ブレイクする、という意味の多重構造を読み取ることもできるからだ。彼らは演奏の衝撃度を研ぎ澄ますこともできるし、ポップ・ソングを書いてチャート上位を狙うこともできるバンドだ。彼らほどロック的な破壊力とメロディ・メイカーの天才性をあわせもつバンドは希有である。しかし、それは諸刃の剣であり、彼らのポジションを曖昧なものにもしてきた。めまぐるしく移り変わる時代において負けない代わりに、シーン動向に左右されない代わりに、自分たちの才能自体に引き裂かれてきたのがグレイプバインのバンド・ストーリーだった。“BREAKTHROUGH”はそうした自分たちへの苛立ちと、それでも双方向へ翼を広げることをあらためて宣言したナンバーと言えるのではないか。小さくまとまるのではなく、張り裂けるくらい飛躍しようとする、その「あがき」が痛々しくも美しい。
    曖昧さから、本当に断定的な全能感を獲得するための第一歩。それが、このシングルだと思う。

    文/ROCKIN’ON bridge 其田


    “BLUE BACK”

    「BLUE BACK」には、リーダー・西原誠(b)の復帰作という側面がある。というのは演奏のみならず、復帰後初の彼が作曲した楽曲でもあるからだ。西原の作曲したシングルはファースト・シングルの「そら」(97年12月リリース)以来になるが、彼自身はシングル云々よりも「自分に曲がまた出せるようになった、っていう事実が何より嬉しい」と語る。そして「一晩で作ってリハスタでせーので録った曲なんです。ライヴで盛りあがれるようにと思って」という本人の言葉どおり、ライヴではもちろんCDで聴いても一気にヒートアップさせられる、あるようでなかったシングルだ(演奏シーンのみで構成されたビデオ・クリップも必見!)。またライヴで盛りあがるといえば、西川弘剛(g)作曲の2曲目「STUDY」(アルバム未収録)もセット・リストに組み込まれること間違いなしのロック・ナンバーだ。最初はダルに、そして曲が進むにつれてギターとヴォーカルがどんどんシャウトし出すこの曲は、ツアーが始まる前にそれこそ“STUDY”しておきたい。

    文/大津輝章


    “風待ち”

    最初にイントロを聴いた時、正直に言うと「あ、狙ったな」と思ったんですよ。ロック・バンドが、その認知度を広げるために、バラードを使う、という最終兵器を使ったな、と。でも、そんなうがった見方は、ボーカルが入った瞬間に吹き飛びました。
     この曲は、ラヴソングの形を借りて、自分自身を洞察している歌なんですね。「君が好きだ」なんて台詞はどこにも出てこない。確かに、思いを寄せているのであろう(それも、どうも確信が持てないのですが)相手にあてた書簡の形をとっているんですけど、ここに綴られているのは、相手に対する想いではなくて、自分自身の心理の分析といったほうがいいものです。
     人は何故、人を好きになるのか? そんなおおげさな命題をかかげても仕方ないのですが、この曲には「人恋しくなる時の心理」が上手く描かれている気がするんです。
     若さに夢と希望をふくらませ、未来に立ち向かっていった若者が、ままならぬ日々の暮らしにもがき続けてスタミナ切れをおこし、ふと、自分のたどってきた道を振り返る。そんな時に、僕らだって、ふと、人恋しくなるんじゃないでしょうか。
     もしかすると、この書簡の宛先は、昔の女友だちかもしれません。夢を共有していた時代の「戦友」のような女友だち。そんな相手になら、少々弱音を吐いたって平気です。
     しかし、この歌の主人公が田中くん自身だとすれば、彼は何故、そして、何に対してもがき続け、そしてスタミナ切れを起こしているんでしょうか?
     この曲が「狙った」ものではない、という理由はそこにあります。
     彼は、今、自分の立ち位置を再確認して、これから進むべき道が正しいものであるという確信をつかもうとしているに違いありません。
     その決意表明として、ラヴソングの形を借りて、自分自身を洞察してみせたんでしょう。
    この曲が、後半ダイナミックに展開していくあたりからも、それはうかがえます。
     とすれば、「風待ち」というタイトルも、とても暗示的に見えてきます。
     彼らは、今、どんな「風」を待っているんでしょうか?
     僕らにだって、「風」を起こす事は、できるかもしれません。

    文/脇坂一彦


    “discord”

    ロックンローラーは寡黙だ、というイメージはどこから生まれたのだろうか?
     番組のゲストや雑誌のインタビューに現れた時のGRAPEVINEのメンバーは、確かに、饒舌なタイプとは言えないだろう。過去の記憶を辿ってみても、自分の作品について立て板に水という勢いで語るロックンローラーなど、そうそういなかったはずだ。
     でも、それは、彼らが寡黙であるということでは、決してないだろう。いい作品、人の心に食い込む作品は、それ自体が、(いろんな意味で)饒舌なものだから。
     GRAPEVINEの生み出す曲は日増しに饒舌になっていく。2年前に発表された曲より、去年の作品のほうがはるかに饒舌だし、新曲を初めて聴いた時の印象より、15回目に聴いた時のほうが、はるかに饒舌にいろんなことを語りかけてくる。
     今回の新作「discord」も、見事なまでに饒舌である。
     僕らは、自分でも気付かないうちに、一瞬一瞬のうちに、自分の中にあるもうひとりの自分に語りかけている。「俺はどこに向かって進んでいるのか」と。そのプロセスを具現化して見せてくれるのが、田中クンの書く詞の特徴といってもいい。多くの人の場合、そのプロセスは一瞬のもので、次の瞬間にはもう忘れてしまっていたりするものだが、彼の場合、メンバーの持ってきたデモテープを聴いたり、スタジオでセッションしていたりする時に、自問自答のプロセスがフラッシュバックしてきて、リアルに歌詞に再現されるのだろう。
     デモテープの音が一度分解され、亀井くんの手でリズムが再構築され、西川くんと田中くんのギターが加わり、そのサウンドの力で、元々あったメロディーにフラッシュバックするように歌詞が乗っかっていく…。そんな想像をめぐらせてみれば、詞を書いて歌う田中くんだけでなく、彼の記憶に訴えかける音をつくり出すメンバーだって、十分に饒舌だ。
     「そんな大袈裟なもんやないですよ」と、彼らは言うだろう。僕らは自分たちがカッコイイと思う音を探しているだけなんだ、と。
     まさにそれが、ロックンローラーは寡黙だ、なんて言われる由縁だろう。作品そのものが(自分たちの理想を追求した結果として)饒舌なのだから、その作品について聞かれても、今さら言葉にして解説することなんておっくうなだけなのだ。女の子を口説く時には、きっと歯が浮くほど饒舌になるはずなのに。
     だから、この際、僕も寡黙になってしまおう。
     「イイよ、GRAPEVINEの新曲は」

    文/脇坂一彦


    “Our Song”

    グレイプバインの最新シングル“OurSong”は、彼らの未来を明るく照らす楽曲だ。現在、彼らは変革期を迎えていて、前シングル“ふれていたい”では同期をつかってグルーヴの重心を上にもちあげたり、チューンアップを計ってきた。その変革が単なる試行錯誤ではないことを、このシングルは告げていると思う。
    これまでの彼らのバラードは、たとえるならば、大きな川の流れだった。スロウ・スピードで流れながら、その底にある泥も見えるというか―――つまり、どこかヘヴィであり、混沌としていたのだ。不協和音のようなギターのコード感、息継ぐ間もない性急なサビ、ディープな歌詞。すべてが指でかき混ぜると濁流にかわりそうな印象を与えた。名曲“スロウ”など、その代表である。
    しかし、今回はちがうのだ。イントロのギターが鳴った瞬間から、風のようにメロディとグルーヴが流れていく(もちろんドラマティックなサビにかけて、風速も威力も一気に増すのだが)。どこか淡々としながらも、記憶の中に深くは入り込んでくる。そう、ある意味、もっとも魔法がかった楽曲なのだ。
    そもそも彼らの変革とは、1stアルバム『退屈の花』で確立した「重厚で、切ない」という世界観から完全に遠ざかり、新しいサウンド・ストーリーを語りはじめることだった。面白いのは、その変化が決して成熟とか老成ではないことである。だいたい、打ち上げではチンコを出すことをいとわないバンドである。重厚で、切ないだけのパーソナリティではないのだ。くだらなさやプリティさが歌詞やグルーヴに現われるのはごく自然のことだ。つまり、彼らがやろうとしているのは、等身大のグルーヴの獲得だった。音楽を自分の生活に引き寄せることだった。これまでも彼らは自分達のドキュメントを鳴らしてきたと思うが、今は赤裸々なのだ。音楽と自分のカラダが引き剥がせない、双児のような関係にある。
    今回のシングル“OurSong”はさらに赤裸々である。ヴォーカルの田中和将が詞・曲を担当。シングルでは初めてであり、彼がこれほど明瞭な言葉でラヴ・ソングを歌うのもめずらしい。恋人に語るように素直な言葉が溢れ、だからこそメロディも自然と、素直に流れていくのだろう。田中のメロディ・メイカーとしての才気、リリック・ライターとしての魂のひん剥き方―――静かな曲だが、気合いはハンパじゃないだろう。
    若くして南部ブルースや、UKロックの滋養を吸い込んだグレイプバインの音楽は、ある時代においては王道と呼ぶことができただろうが、今のシーンでは決して王道ではない。2本のギターが饒舌なカラミを見せ、そのスリリングな駆け引きがグルーヴを生む「王道の」ギターロック。あるいはタメの効いた8ビート。そのスタイルにグレイプバインはロマンを見出し続けている。彼らは「王道」にすがっているわけではない。「自分が生きてきた道」を吹き込めば、あらゆる音楽がリアルに響くことを寡黙に証明しているのだ。美しいバラード“OurSong”の魅力は、その確信にこそある。アルバムまで、迷いなく突っ走ってくれることを僕は祈っている。というか信じている。そう聴き手にうながす傑作ナンバーだ。

    文/其田尚也(ロッキング・オンJAPAN編集部)


    “白日”

    GRAPEVINEに捧げる

     ミストブルーの淋しさを楽しむ時、GRAPEVINEの歌を聞きたくなる。
    閉じて完結しているのに、すべての場所に通じている道を歩いている。
    そんな感覚が自分で忘れていた、心の回路をどんどん開いてくれるから。
    彼らの作り出す「見える音」は、ロックバンドの至福だ。
    高まって行くうねりの生み出す官能が、五感を震わせて、いつの間にか見たことのない新しい景色があたしを包んでいる。
    新曲「白日」を昨日、初めて聞いた。
    ボーカル田中和将の不思議な少年声の魔法に抱かれて、あたしはこんな世界を見ていた。
    淡い紫色のフィルターを通して、写真のポジのように反転した色彩。
    物狂おしい恋の残り火が、地平線のパノラマを暗い朱色に変え、醒めた眼差しは氷の美しい花を咲かせているベースとギターは生きた海水のように、官能的な感触で全身に絡みつき、星の吐息をドラムが刻む。
    そんな光景は、誰かを苦しいほど想って眠れずに迎えた夜明け、トランスと共に訪れるものだ。
    耳だけじゃない。身体が「GRAPEVINE」を渇望している。

    文/桜井亜美


    [OTHERS]

    “GRAPEVINE tour 2011「真昼のストレンジランド」”

     グレイプバインの11作目『真昼のストレンジランド』は、彼等が新しいフェイズに進んだことを示す力作だ。ライト・ノヴェルのように親しみやすい言葉で純文学並みの深みを描き出す歌詞と、広い地平を描き出す柔軟にしてタフな演奏が、脳裏に様々な光景を描き出す。『真昼のストレンジランド』とは、田中和将((Vo,G)によれば「自分の中にある異境、あるいは異境のどこかで自分みたいな人間が動いているイメージ。全体に白日の下に晒されているような曲が多い」ということから付けられたアルバム・タイトル。特にコンセプトはないそうだが、曲それぞれのイメージが自然と繋 がって、オムニバス映画のように物語を紡ぎ出す作品となっている。
    耳だけじゃない。身体が「GRAPEVINE」を渇望している。
      グレイプバインのライヴは本当に毎回、こんなバンドだったかと目から鱗が落ちる常に発見があり、いい意味で裏切ってくれるが、このツアーでは一段と驚きと感動を与える内容になっていた。明るさを抑えた幻想的な照明が曲のイメージを膨らませ、完璧なバランスで音が響き渡る。曲が進むほどに彼等のダイナミックな演奏に引き込まれ、軽いトランス状態になるほど。中盤で圧倒的な展開を見せる「411」をはじめとする新曲は当然として、それらの間に、例えば「冥王星(’08年のシングル「ジュブナイル」収録)などマニアックな曲も、違和感なく織り込まれる。何処までも広がるサウンドスケープに、息をのまずにいられない。
      このツアーは3月5日から始まり、ここに収録された4月23日の新木場スタジオ・コーストでフィナーレを迎えるはずだったが、3月11日に起きた大震災のため仙台や盛岡での公演が延期となり、この後もツアーは続いた。「皆さんの物語は続いています」と田中が幕開けに語りかけるのが、このツアーでは定番になっていたが、彼等の物語も続いていたのだ。そして、この日のライヴには様々な理由でツアーを見ることが叶わなかった人たちへ届けたいという思いがこもっていたのではないだろうか。
      同梱のツアー・ドキュメントが、ここに至までの道程を追っている。移動し演奏し飲み眠り旅する中で、彼等は自分たちを鍛え楽しませ進み続ける。音楽を生業とした人たちの地道な日常は、案外地味なものだ。けれど新しい音楽がここからまた生まれる。グレイプバインが惜しみなく素顔も見せたこのツアーとライヴの記録は、作品毎に高みを目指し、数えきれないほどのライヴを重ねて進み続けている、このバンドの生命力に改めて脱帽したくなる映像作品となった。

    TEXT 今井智子