



グレイプバインの前作『Sing』は、このバンドが到達したとてつもない高みだった。少なくとも歌ものバンドとしてのグレイプバインは、このアルバムをもって頂点を極めたと言いきっていいと思う。楽曲の清新とキャッチーさと完成度、演奏の安定と成熟、プロダクションの洗練は、過去最高の水準に達していたし、それは彼らの15年に渡るキャリアの集大成と言った趣さえあった。
しかし、頂点である限りは、その先は下るしかない。これからグレイプバインが、大きな太陽が地平線に沈んでいくように、なだらかな下り坂をゆっくりと下っていったとしても、誰も非難などできるはずがない。もう彼らはとうの昔に青春期を終えているはずのバンドだったからだ。
だが本作『Twangs』において、彼らはぼくのそんな思い込みなど軽く粉砕する、予想もしない変貌と進化を遂げていた。冒頭の「疾走」が象徴的だ。切れ味鋭いギター・リフに導かれ、サイケデリック、ロウファイ・オルタナティヴ、プログレッシヴ、ポスト・ロック……さまざまなカッティング・エッジなエッセンスが火花を散らしながら煮えたぎるカオスの渦となって牙を剥き、聴き手に襲いかかる。いつになく攻撃的な歌詞といい、ストリングスをフィーチュアした重厚なアレンジといい、そのインパクトは尋常ではない。その後もダイナソーJrさながらの荒々しいガレイジ・サウンドとグラム・パーソンズばりのカントリー・ロックが無理やり合体したような「Pity on the boulevard」、英語詞の「Vex」、生ギターとストリングスだけで構成された「Twang」など、ほぼ全編にキーボードなど3人以外の楽器がフィーチュアされた大胆なアレンジで、これまでのグレイプバインの、正統派の端正なギター・バンド的なイメージを完全に覆しかねない冒険的なサウンドを展開している。その密度の濃さと情報量の多さはすさまじい。
もちろん生命線であり、彼らの音楽の核であるポップでエモーショナルな歌ものとしての魅力は健在である。だがそれ以上に、おそらくはプロデュースの長田進との緊密なコラボレーションによって構築された野心的なプロダクションは、衝撃的ですらある。まさかグレイプバインがこんな方向に進むとは思わなかった。そこにはブルックリンあたりのサイケデリックなアート・ロック・シーンにも共振する同時代性すら感じ取れたのだ。
この変貌の裏には、今年のSXSW(サウスバイサウスウエスト)への出演、そして初のNYライヴなどの影響があるようだ。洋楽的な出自を持ちながらも、あくまでもドメスティックなロック表現を目指していた彼らは、そこで改めて大きな刺激を受けたのだろう。その刺激は、彼らを大きく変貌させ、脱皮させたのである。
ぼくはかって、グレイプバインの音楽はデビュー時から完成されていた、と書いたことがある。バンドにとっての青春期が音楽性という自我の形成期であるなら、彼らの青春期は終わっていたはずだった。だがデビュー10年以上を経て、彼らは大きく変わった。緩やかな減衰期に入っていたはずのバンドは、まさに青春期的な衝動とエネルギーと新鮮な情熱を取り戻したのである。圧倒的だ。
このアルバムが従来からのファンにどう受け止められるのか、わからない。だが彼らにとってこのアルバムは、第2のデビュー作といっていいほどの重要作でありメルクマールとなるのは間違いないと思う。ここから新しい時代が始まるのだ。
2009年6月15日 小野島 大

素晴らしい。完璧である。
全12曲、捨て曲なし。息を呑む名曲のオンパレード。
何度も何度も、心臓を鷲掴みにされ、肌が泡立ち、背筋に戦慄が走る。日本人の生理と感情の奥底を直撃するような絶妙な歌メロとコード進行の妙。シングルとして発表済の曲も、アルバムの中の1ピースとなることで、輝きを増す。ここ数作のうち、もっとも楽曲の粒が揃っていることは間違いない。
名曲に巡り会う瞬間は、いつだって理屈ではない。音だけではない。もちろん言葉だけでもない。音と言葉が一体化して、静寂から立ち上がる刹那に感じる直感がすべてだ。本作にはそれがある。聴いた瞬間、すべての世界観を共有できる。この一体感。
丁寧に、じっくりと育んできたことがわかる12曲。前作『From a Small Town』から本格化した長田進とのコラボレーションはさらに熟成してきた。決してバリエーションのある楽器編成ではないのに、きめ細かなアレンジと、引き締まった演奏、ほのかに湿った空気感を漂わせるエンジニアリングで、思いのほか変化がある。
グレイプバインの音楽は、ずっと歌詞先行の頭でっかちなものだと思い込んでいた。だが『From a Small Town』時の取材で、その先入観は間違いだと知った。音楽で何かを恣意的に語る行為を拒否する。何らかのメッセージを伝えるための手段として音楽があるのではない。音楽を意味の王国に祭り上げない。田中和将をはじめ、グレイプバインのメンバーは、そんな信念の持ち主だった。
もちろん歌詞は言葉であり、言葉である限りは意味がある。聴き手はその意味を自由に解釈すればいい。だが歌詞であるからこそ、言葉単体ではなく、音楽と一体化した<音>として受け止めなければ、それこそ意味がない。たっぷりの情動、喧噪と沈黙、その狭間から聞こえる言葉の断片がイマジネーションを広げ、グレイプバインの光景を形作っているのだ。本作で、その世界はいっそう鮮やかな光を放っている。
本作のタイトルは「Sing」。声に出して歌うだけが「歌う」ことなのではない。ギターも、ベースも、ドラムスも、すべての楽器と空気が歌っている。言葉はなくとも、歌っている。歌うからこそ広がる世界があり、共鳴する宇宙がある。グレイプバインの新作は、そんなことを教えてくれる。見事な傑作である。
2008年5月15日 小野島 大

2007年1月31日 小野島 大



吹きとんでる。漲ってる。なんだこれは。やばいぞ、グレイプバインのニューアルバム。叫んでる。毒吐きまくってる。おまけに突然絶望する。愛を謳う。世界を嗤う。開き直る。笑いとばす。どうなってんだ。曲調ばらばら。飛び散りまくりのエモーション。たとえるならば、あれだ、そう、アップダウンの激しすぎる山道ドライブな聴き心地。アクセル全開。瞳孔半壊。それって最高にロックンロールじゃないですか!
やっぱね、乗組員が変わったのがまず大きい。これまでナビしてくれていた根岸孝旨センパイがいなくなり、今回からはメンバー3+サポート2の完全5人乗り仕様。ハンドル握った餓鬼どもは、もう、とばすとばす。ツアーで鍛えられた手に汗握るグルーヴ優先。ソリッドなるバンドサウンド満載。ほとんどガレージな「シスター」「ミスフライハイ」、そして「鳩」。かつてこれほどまでにノドを枯らして歌う田中の姿があっただろうか。ほとんどファンクな「11%MISTAKE」。ほとんどビートポップな「アンチ・ハレルヤ」。かつてこれほどまでにヤンチャ心に満ちたトライアルがあっただろうか。本作の特筆すべき点は、まずそこだ。エネルギッシュ。そしてスパークリング。この研ぎ澄まされた音の波形に溺れる悦楽――その効き方は、彼らのこれまでのどの作品と比べても、また現存するミュージシャンのどの作品と比べても、高い。
しかし、だからといってこのアルバムが、ゴリゴリのロックアルバムでしかないかと問われると、答えはノーなのだ。先行シングルとして切られた「会いにいく」「ぼくらなら」、そして収録曲の「公園まで」。本作では、ここに顕著なメロディアスなポップス寄りの楽曲が、前述のソリッド・ロックとまるで違和感なく並んでしまっている。いや、むしろ、この激しい段差のおかげで、キレてるものはキレキレに、センチなものはドセンチに、各自立体感を増し、奥行を増して迫ってくる。最初にも書いたように、本作に収められた楽曲はとてもばらばらだ。ロックもあれば、ポップもある。全方位型のグレイプバインといっていい。しかし不思議と散漫な印象はない。ここで私は想像する。高速で回転する物体が、次第に中身を撹拌させ、ひとつひとつの要素を分離・濃縮させていく科学現象。さすがミスター・サーキュレーター(前々作アルバム『Circulator』=循環するもの)。この破天荒なまでの飛び散り具合は、彼らの撹拌&濃縮、そしてその源である加速力の激しさを表してはいまいか。つまりまたエネルギーと内圧の強さを!
書き手の興奮は、そのまま本作の与えたインパクトの大きさと思ってもらってかまわない。うたの聞こえるロックアルバム。自らを切り売りすることなく、力とスキルとソウルでもってすべてをねじふせようとする攻撃的たたずまい。大人には勇気を、子供には憧れを――私は本作をグレイプバインの最高傑作と推すことにいま、異存はない。








